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東洋のマチュピチュと松山城 車中一泊旅行 その3
2016年05月17日 (火) | 編集 |
2日目の朝は、前日の大風&雨が嘘のような快晴!(*´▽`*)
東平ゾーンに行くにしても、やはり晴れていないとなぁ~と思っていただけに、嬉しいお天気の回復です。
東平ゾーンへのバスの運行が始まる前なら自家用車で東平に行くのも苦ではなかろうと、さっさと朝食、身支度を済ませて、いざ出発~!

以下、つづきにて~



東平に行く前に、ちょっと寄り道して、鹿森ダムのすぐ先にある遠登志(おとし)橋を見学します。

東洋のマチュピチュその3 64
このようなループ橋を通るとすぐ―
(この写真は鹿森ダムから撮ったものですが)

東洋のマチュピチュその3 65
鹿森ダムです。

ダムの先にちょっとした駐車場があって、遊歩道があります。
登山道の入り口でもあるらしく、先客が2,3人おられました。

東洋のマチュピチュその3 5
橋まではこんな感じの遊歩道。
歩きやすいです。

東洋のマチュピチュその3 4
切ったような鋭角の石が。

東洋のマチュピチュその3 1
遠登志橋に到着~。

東洋のマチュピチュその3 2
この辺りは遠登志渓谷というらしい。
元々は「落とし」で、川の水が滝となって落ち込むのを
地名にしたものだそう。

東洋のマチュピチュその3 3
この遠登志橋、元々坑水を流すための水路として、
また、人の往来や物資を運搬するための橋として
架設されました。

この橋から先は、東平、銅山へと続く登山道になります。
もちろん、そんな登山をするつもりはさらさらないので、この橋を渡った時点で引き返し、再び車に乗り込んで東平へ。

東洋のマチュピチュその3 6
まだ風は強いものの、青空!!

途中、案内板のある道を入っていくと、確かに、すれ違うのに往生するような細いぐねぐね道でした。
「運転に自信のない人はバスを使ってください」と案内するはずだわ(^▽^;)
でも、まだ9時になっていなかったからか、すれ違う車は2、3台で(ていうか、この時間に東平から降りてくる車があるってどいういうこと?と思ってたら、東平に宿泊施設があったらしい)、すれ違いができるよう道幅の広くなった箇所もいくつかあるので大丈夫でした。
車を走らせること、20分くらいで東平に到着~!
駐車場には誘導員がいて、やって来る車や人が多いんだろうなぁと想像されました。この時は、登山をする人は奥の駐車場に停めるよう指示していたようです(長時間駐車することになるからでしょうね)。

さて、到着したはよいものの、ここでもどこに何があるのかさっぱりわかっていない私たち(;´∀`)
とりあえず、看板を見て全体像を把握。
東洋のマチュピチュその3
「P」と書いてあるところが今いる場所ですね。
マチュピチュのような遺構が見られるのはそのすぐ下(東側)の部分です。

ここは標高750m、遺構は山中にあります。
東洋のマチュピチュその3 51
駐車場の上から見るとこんな感じ。

東洋のマチュピチュその3 21
別の場所からですが、遺構の全体像はこんな感じ。
山肌にへばりつくように建っている―
なので東洋のマチュピチュなんですね。

早速下へ向かいましょう。
急な階段がお出迎え。
東洋のマチュピチュその3 7
「インクライン跡」
大正5年(1916年)頃、東平~端出場(前日行ったとこね)索道の
物資運搬の接続施設として、
東平工場中心地・電車ホーム(現在の駐車場の傍にあった)と
索道基地との間に斜長95m、仰角21度で
インクラインが設置されました。
動力は電気巻き上げで、複線の斜路は連動していて
片方が上がれば片方が下がる仕組みになっており、
必要な物資や生活用品などが引き上げられ、
坑木が引き下ろされていました。
今は、220段の階段になっています。

東洋のマチュピチュその3 8
階段の途中からちょっと脇にそれると、
「貯鉱庫跡」に出られます。

東洋のマチュピチュその3 9
「貯鉱庫跡」
坑内から運び出された鉱石は、
索道基地から運搬されるまでの間、
ここに貯められていました。

東洋のマチュピチュその3 55

東洋のマチュピチュその3 11
見晴らしがよいです。

東洋のマチュピチュその3 12
うっすら見えるのは新居浜市街かな?

東洋のマチュピチュその3 52

東洋のマチュピチュその3 53

東洋のマチュピチュその3 56


東洋のマチュピチュその3 13
手前にあるのが「索道基地跡」。
明治35年(1902年)の第三通洞の開通に伴って
輸送路の充実を図るために、明治38年(1905年)に
ドイツ人技師により、東平~黒石駅間(3,575m)に
自動複式索道が設置され、東平に索道基地が完成しました。
その後、昭和10年(1935年)には距離を短縮して
東平~端出場間(2,717m)に。
東平~端出場間の索道には、26基の支柱が立ち、
80器ほどの搬器が吊るされて分速150mで回転。
索道では鉱石を輸送するだけでなく、物資・生活用品・木材なども
輸送していたそうです。
今は東平ゆかりのシャクナゲやドウダンツツジなどを
植栽した花木園になっています。

東洋のマチュピチュその3 14

東洋のマチュピチュその3 15

東洋のマチュピチュその3 57
「社宅跡」
鉱山で働く人々の社宅です。
基礎のコンクリートを生かし、骨組みだけで
実物大に復元したそうです。
けど、草ぼうぼうで
近くには行けないようになっていました。
かまども転がって廃墟になってるし・・・

この社宅跡が最下部になっていて、ここから、インクライン跡の階段を上れば駐車場に戻れますが、我々は階段を上らずに横道にそれてみました。
そこでは、ここで働いていた人たちの生活の一端を垣間見ることができます。
この東平では、多い時で5,000人余りの人々が暮らしていたのです。

東洋のマチュピチュその3 16
「娯楽場跡」
明治45年(1912年)に建設され、昭和43年(1968年)の閉山まで
人々の憩いの場でした。
収容人数は2,000人とも言われ、
定期的に演劇や歌舞伎などが上演されていました。
建物に通じていた橋が残っています。

東洋のマチュピチュその3 58
娯楽場跡の回り舞台跡。
華やかなりし頃を思わせます。

東洋のマチュピチュその3 17
「保育園跡」
昭和25年(1950年)に開設され、昭和43年(1968年)までの18年間
幼児教育の中心の場として利用されました。
3歳頃から小学校に入学するまでの子どもを預かっていました。
園児は東平全域から通っていたそうです。

東洋のマチュピチュその3 18
生活道路だったんでしょうね。

東洋のマチュピチュその3 19
「配給所跡」
東平生協は明治39年(1906年)に配給所として開設され、
閉山までの62年間、東平の台所として多くの人々に親しまれました。
そして、昭和33年(1958年)6月1日に配給所から
生協として新しく生まれ変わりました。
ここには、いつも新鮮な魚や肉、その他にも生活に必要な品物は
ほとんどそろっていたそうです。

この他に「病院跡」もあったんですが、何となく写真に撮るのは憚られて撮りませんでした。
明治38年(1905年)の開設から昭和43年(1968年)に廃止されるまで、63年間、東平の人々の命と健康を守り続けてきました。開設当初、内科、外科の診療が行われ、普通の病室の他に隔離病棟と避病舎も設置されており、法定伝染病の人たちの収容も行われたそうです。

もちろん、小学校や中学校もあって、そこは今銅山の里自然の家になっています。
この山の中に街の機能全てが揃っていたんですねぇ。。。

閉山後は、そこに植林がされて街が自然に返っていく・・・。
人の営みもすごいけど、自然の営みもすごいなぁ。


病院跡を見た後は、駐車場に戻って来て、今度は第三通洞を目指します。
―が、長くなっちゃったんで、その4につづきます・・・(;´∀`)


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