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東洋のマチュピチュと松山城 車中一泊旅行 その4
2016年05月19日 (木) | 編集 |
今年は我が家の畑が大変なことになっています。
何しろ、今までにないような大風が吹くのです。
せっかく植えたトマトやナス、キュウリの苗が、大風にやられて倒れ、瀕死の状態です。
ジャガイモも結構大きくなってきているのに、茎が折れてしまうモノも。
トマトの苗は、オットの姉が新しいのを植え直してくれました。
こんな小さな畑でも、うまくいかないとがっくり来てしまうのに、それを生業にしている方たちにしてみれば、死活問題なわけで、がっくりなんてもんじゃないだろうなぁ。
自然と付き合うことの難しさをつくづく感じてしまいます。


さて、駐車場に戻って来た私たち、インクラインとは反対方向へさらに遊歩道を進んで、第三通洞を目指します。



東洋のマチュピチュその3 20
第三通洞へ向かう途中からの眺め。

東洋のマチュピチュその3 22
「第三社宅跡」
この名前は、第三通洞の「第三」に由来するそうです。
この石積みの上に家が建っていたのでしょうね。
右端にチラッと写っているのは階段です。
下の段は崩れそうでした。
上に上がっても何もないだろうと思いつつ
上がっちゃうんだよね(^^;)

東洋のマチュピチュその3 23
遊歩道は割ときちんと整備されています。

東洋のマチュピチュその3 24
「第三変電所跡」
明治37年(1904年)に建設され、昭和40年(1965年)まで
61年間使用されました。
東平で当時のままの建物が内部までそのまま残されているのは、
ここだけだそうです。

東洋のマチュピチュその3 25
中にも入れます。

変電所っていうから、もっと工場っぽいのかと思っていたら、
何だか宿直室っぽい感じでした。
かまどとかもそのまま残ってたり、
畳のない居室とか・・・
ホントに廃屋って感じだったので、
何とな~く、写真に撮りにくくて。
東洋のマチュピチュその3 26
古いガラスが使われている窓だけ撮ってきました(;^ω^A

東洋のマチュピチュその3 27
そして、「第三変電所跡」のすぐ近くに、
「第三通洞」があります。
手前のは、レールの跡でしょうかね。

東洋のマチュピチュその3 28
第三通洞は、東平を象徴するものです。
明治27年(1894年)から掘り始め、8年後の明治35年(1902年)に貫通。
第三通洞の開通によって東平時代が幕を開けました。

東洋のマチュピチュその3 29

東洋のマチュピチュその3 30
逆光で見えにくいですが、
高い石垣に挟まれるように、通洞口があります。

この第三通洞の先にも遊歩道があって、すぐ傍に川が流れています。
東洋のマチュピチュその3 31
渓谷になるんでしょうかね。

東洋のマチュピチュその3 32

東洋のマチュピチュその3 33
前日に雨が降ったにもかかわらず、
すごく綺麗な水でした。

道は先まで続いていますが、恐らく登山道になるんでしょう。
でも、登山するつもりも時間もないので、
東洋のマチュピチュその3 34
来た道を引き返します。

東洋のマチュピチュその3 35
すぐ傍を流れる川(すでに滝?)は
かなりの水量でした。

東洋のマチュピチュその3 36
第三通洞まで戻ってきました。
これは、第三通洞近くにあった滝。

東洋のマチュピチュその3 37
石造りのトンネルのようなものの中を
川が流れていきます。
これも造ったものってことだよね。

第三通洞から駐車場へ、元来た道を、来るときに見なかった遺構を見ながら戻ります。

東洋のマチュピチュその4 1
「旧火薬庫跡」
わかりにくいですが、入り口が横向きに見えます。
これは、不測の事態が起こったとき、
爆風などが人や施設に影響を与えないよう
配慮されたものだそうです。

東洋のマチュピチュその3 39
中は真っ暗で見えず・・・

東洋のマチュピチュその3 40
壁の岩には無数の穴が。

東洋のマチュピチュその3 41
このボルトの跡でしょうか?

さらに進みますと―
東洋のマチュピチュその3 42
「大マンプ」
トンネルです。
東平の電車乗り場から第三通洞へ向けて、
2つあるトンネルの内の長い方。
マンプというのは、坑道を意味する間符(まぶ)から
転じたものだそうです。

東洋のマチュピチュその3 43
向こうまで通じてます。

東洋のマチュピチュその3 44
こちらは反対側。
登山者用の駐車場にありました。

東洋のマチュピチュその3 45

さらに進んで東平歴史資料館まで戻ってくると、短い方のトンネル「小マンプ」があります。
その中は―
東洋のマチュピチュその3 49
鉱山の運搬機器が展示されています。

東洋のマチュピチュその3 46

東洋のマチュピチュその3 47

東洋のマチュピチュその3 48
あっ、かご電車!
「別子銅山記念館」にも展示されてました。
こっちの方が使い古された感がありますな。
色のせいかしら?(笑)

「東平歴史資料館」にも入ってみました(入場無料です)。
ガイドツアーで、ガイドさんと一緒に入ると、もっといろんな説明が聞けたのかもしれませんが、写真パネルや映像だけでもそれなりにわかるよう、工夫されています。
たぶん、ガイドさんだと臨場感のある話が聞けるんでしょうけどね。
中には、「仲持(なかもち)さん」体験コーナーというのもあって(仲持さんというのは、牛車の運搬道が開設されるまで銅を運搬していた人のことですが、男性45㎏、女性30㎏を担いでいたとか)、30㎏の荷を担げるようになっていたので、挑戦してみました。
子どもをおんぶするようなもんかな、と思ってたんですが、いや~、とても、担げませんでしたわ。
本格的に山登りするような人は楽々担ぐかもしれませんが・・・。コツがあるのかもしれないね。

そして、最後に見たのが、駐車場のすぐそばにある―
東洋のマチュピチュその3 62
「旧保安本部」
今は「マイン工房」として、
銅板レリーフの銅工芸が楽しめる体験工房になっていますが、
明治時代は配電所、大正時代は林業課事務所、
その後は保安本部として活用されていました。

東洋のマチュピチュその3 63
このコンクリート階段の下には、第三通洞、日浦通洞を
走っていた電車のホームがあったそうです。

東洋のマチュピチュその3 61
ここに線路があったのかな~。

気づけば、すでに11時半!ここで半日も費やしてしまいました。
まだ旅程半ばなのに、これはいかん!その日のうちに家に帰れんがな!と慌てて東平を出発します。

帰り際、マイントピア別子端出場ゾーンで、見るのを忘れていた「旧水力発電所」を道路から見学。
東洋のマチュピチュその3 66
明治45年(1912年)に完成。
当時としては東洋一の落差(596m)を利用して
発電が行われたそうです。

こうして、別子銅山に別れを告げたわけですが、反対車線のマイントピア別子に入ろうとする車が長蛇の列をなしているのに、びっくり!
そんなに人気のスポットだったんですねー!
でも、確かに、人間の技術力とか体力とか精神力とか、そういったモノの凄さを感じる場所でした。
一方で、そういう人間の営みを飲み込んでいく自然の厳しさも感じました。これは、植林の影響もあるとは思いますが・・・。
山を開発すると同時に、環境汚染にも向き合ってきて、それが植林に繋がっているのですよね。
そういう「共存」の精神も大切にしていきたいと思いました。


ということで、別子銅山編はここで終了。
次回は松山城編です。
今しばらくおつきあいください(^▽^;)

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